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2009年9月13日 (日)

純文学的な手法

 久しぶりの、本当に久しぶりの更新です。
 なんせ「あけましておめでとう!」以来の更新になるのですから……。

 さて、今日は「純文学的な手法」について思うところを少し書いてみます。なあに、そんなに堅苦しい内容ではありません。あくまでも私が勝手に思い込んでいることを書き散らすだけですので。ははん、ふうん、こんな風に考えている奴もいるのか、って感じで軽く読み流していただけましたら幸いです。

 まずは分類・整理――「純文学」と「大衆文学(エンタメ系)」の違い――を。
 小説に限らず、テレビ・映画・アニメ・漫画などあらゆるメディアを通じて、それらを描く手法・目的によって私は次のように分類しています。

  ◆純文学的な手法
    「物象」を描くことで「心象」を浮き彫りにする手法。

  ◇大衆文学的な手法(エンタメ系の手法)
    「物象」を描き、「物象」そのものの動きを愉しむ手法。

 我々を取り巻く日常の出来事を「物象」とみるなら、直接目にすることができない「心象」――人の心の風景――を鋭くえぐり、心の闇・真理をあぶり出すように映すやり方のことを「純文学的な手法」というのではないでしょうか?
 もちろん、上記ふたつの手法はどちらか一方に偏っているわけではなく、どちらに重きを置いているのか、という類のものではありますが、でも明らかに志は違うように思います。
 だから、純文学的な手法で描かれるものには、ストーリイを追って得られる愉しみだけではない何か――活字やスクリーンの向こうに広がる、人には解くことのできない真理のようなもの――が用意されているような気がするのです。そしてそれが、人のココロをゆさぶり動かす力になっているのではないでしょうか? 10年経っても、100年経っても、描き出された神髄は損なわれることなく、永久に後世へと遺されていくのではないでしょうか?

 結局、私は何が言いたかったのでしょうね?(^^;
 なんか久しぶりの更新だったので、覚え書きのように書いちゃいましたけど、これからはもう少しマメに更新できるよう――自分なりに――がんばります!

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